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GODAKIKAKU

SYNTHESE

-DRAG meets CONTEMPORARY-

2021.1.10.sun

Kyoto Art Center

  Documentation  

Performance Review

マルガリータ・アルデンテ

review vol.1

"SYNTHESE -DRAG meets CONTEMPORARY-"を振り返って
 

 わたしは、マルガリータ・アルデンテ。

"SYNTHESE-DRAG meets CONTEMPORARY-"に出演したフランソワ・アルデンテの<姉>。姉妹がDIAMONDS ARE FOREVERに出ていた昔を覚えてくれている人もいると思う。

 さて、あのステージで、わたしならこうしたかもしれない・・ということを書いてみたい。なぜなら、少しばかり腑に落ちなかったものだから。

 

 皆の苦労の前に偉そうなことは言えないけれど、しいていえば、ドラァグクイーンとダンサーが、もっともっと距離をとって、まとまりなど考えずに、バラバラにパフォーマンスすればよかったのではないかと思う。実際バラバラに見えたのは、舞台の上でもソーシャルディスタンスをとっていたからだそうだけど、ソーシャルディスタンスというのは、社会的なつながりを隔てるという意味ではなかっただろうか。だとしたら、だとしなくても、ドラァグクイーンのパフォーマンスとコンテンポラリーダンスは、別々に生まれて、別々に育ったのだから、もともと隔たっているわけだ。ディスタンスを超えて何かが始まる、はずのステージだったと思うけれど、そのディスタンスは、現実にはなかなか手強いものだったということだ。

 

 まったく違う生き物集団がぶつかりそうでぶつからない、緊迫感がほしかった。ふたとおりの集団の間に、決定的にアンタッチャブルな真空地帯がある、ぐらいの、フィジカルディスタンス=物理的な実際の距離、をとりまくってほしかった。ドラァグクイーンはいつもどおりにやりますし、ダンサーも勝手にやりますわ。ぐらいが良い塩梅だったのだ。ドラァグクイーンはいつもの、<社会的に>ドラァグクイーンを地でいく。取りつく島のない存在でよい。ダンサーは、不自由な衣装など脱ぎ去って、ラストシーンのように、下着でよかったのだ。

 わたしなら、ダンサーに合わせてくれなくてもよかった。だから、取りつく島のない曲にしたかもしれない。たとえば、白人男に虫けらのように殺される<イージー・ライダー>の"Born to be Wild"とか(アルデンテ姉妹の名作だとわたしは思うが)。ダンサーたちに白人男と娼婦を踊ってもらいたい。父親に撃ち殺されたマービン・ゲイと早世したタミー・タレルの"Ain't no mountain high ecnough"などもよいかもしれない。これもアルデンテ姉妹が男女入れ替わるのだが、なかなかどうしようもないショーだ。ビルから飛び降りて亡くなった藤圭子でもよかったかもしれない。要は、なんとも面倒くさい人々を思い浮かべる曲。

 ドラァグクイーン誕生の歴史には諸説あり、ひとりずつがドラァグクイーンである理由も100女王100とおりだし、パフォーマンスの方向性もそれぞれだ。レビューを目指すステージもあれば、世の中の異物であろうとするときもある。わたしは、<過剰な女性装をする>女のドラァグクイーンだった。女の画家が女の肖像や自画像を描いたりするのとたぶん同じで、自分や世の中への腹立たしさをひきずって、どちらかといえば不機嫌な異物系だった。"SYNTHESE-DRAG meets CONTEMPORARY-"に出たとしても、やっぱりそれ系だっただろう。ダンサーたちには、うんと遠巻きに(社会的=ソ−シャル&物理的=フィジカルディスタンス)してもらいたいのだ。

 だから、シモーヌ深雪が、最初から最後まで布で顔を覆って、居場所はここじゃないし、と言わんばかりなのが、観客もダンサーも遠ざけてしまって、意義深かった。テレビのキャラクターでなくてよかったのだし、場所が芸術センターだからといって芸術の枠組みに取り込まれる筋合いもなかったのだ。同じ流れで捉えると、ブブのさびれ加減、フランソワの不貞腐れ具合、そよ風さんのダルさもよかった。役柄ではない、ドラァグクイーンが、社会的距離(ソ−シャルディスタンス)を保ったまま、そこに居たからだと思う。

 

 今、わたしは、街の片隅で地味に暮らしていて、ときおり、腐ったお金の匂いがするミナミの巨大ナイトクラブとか、晴れた日曜日、パレードのオープンカーから「あたしたちはバケモノよ〜」って大衆に向かって叫んだお友達などを懐かしく思い出す。横に座るシモーヌがビカーっと照り輝いていたのを思い出す。あの頃に比べると、世の中全体が平板でモノ分かり良くなり過ぎた。アバンギャルドとかアンタッチャブルなものやヒトとほとんど出会わない。ナイトクラブの一夜、ドラァグクイーンは、外の世界をひっくり返す存在だったと思うけど、今の世の中は、ひっくり返す価値もない。人類というか地球が終わりに向かっているというのに、クリエイティブなことのすべてが、なんだか行儀がよい。

 もし、"SYNTHESE-DRAG meets CONTEMPORARY-"が再演されるなら、少し先の未来の都市の廃墟がいい。干上がった荒地で、空なんか黄砂で覆われていて、煌びやかな羽も布もウイッグももがれ、メイクもはがれたドラァグクイーンと、本当の裸のダンサーによるステージだ。困惑にまみれて、さぞかし美しい光景だろう、と思う。属する社会やシーンが無効になって、困り果てた素っぴんと素っぽんぽんで、初めて、ディスタンスは消滅するのではないかと思う。そのときは、わたしも何か一緒にしたい。

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マルガリータ・アルデンテ

故グロリアス・ワンソンから、ドァラグクイーンを知る。数々のパーティーに出入りするうち、1993年頃から、妹フランソワ・アルデンテと活動を始める。2010年頃にDIAMONDS ARE FREVERでの活動を休止し、現在に至るが、ごくまれに、突発的に他のイベントに出演することがある。

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