GODAKIKAKU
SYNTHESE
-DRAG meets CONTEMPORARY-
2021.1.10.sun
Kyoto Art Center
Documentation
Talk
2021年1月10日に京都芸術センターで行われた「SYNTHESE -DRAG meets CONTEMPORARY-」公演について、演出を担ったシモーヌ深雪さんと出演したダンサーの皆さんとで振り返りました。
コンテンポラリーダンスとドラァグクイーンの出会いが生み出した表現や、それぞれのバックボーンなど様々な意見が交わされました。
聞き手
遠藤リョウノスケ
(のすけ)
シモーヌ深雪
(シモーヌ)
益田さち(さち)
合田有紀
(合田)
野村香子(香子)
参加
斉藤綾子(綾子)
古薮直樹
(やぶ)
仙波晃典(仙波)
Q6 .
コンテンポラリーダンスと音楽について
−− 体内にリズムがある / 自力で探して / テンポやリズムを無視しない / 必要か不必要か
シモーヌ この公演では、ドラァグクイーンそれぞれがいつもステージでやっているショーの曲を土台にして演目を作りました。ダンサーにとっては、そこもいつもと違う点だったと思うけど、コンテンポラリーダンスに音楽は必要だと思いますか?
仙波 必要じゃ無い時もあります。僕は2年くらい無音でやっていて。リズムは多分あるのですが、音楽のリズムではなく、体内のリズムに近いです。以前、GAGAっていうメソッドのワークショップを受けた時に、体の中にはもうすでにリズムはあると教わって。何も音が無くても体内にリズムがあるということは意識をしています。
シモーヌ デジタルの時代になって、手に入れることも容易になったし、みんな音楽はよく聴くよね。それぞれ、好きな音楽が色々あると思うけど、ダンスで使う音楽と好きな音楽とは分けてるの?そうでもないの?
やぶ 流行りの曲で踊ったり、作品を作る人は少ないですね。理由はわからないですけど。音楽を選ぶときは、題材に合うテーマから考えて、音を自力で探して、 CD を借りるか買うことが多いです。後輩が分からない時に、先輩が「こういうのどう?」と提案することも多いですが。
シモーヌ 公演で使用したドラァグクイーンの曲にはテンポが必ずあって。テンポを合わせる重要性もコンテンポラリーダンスの人たちに知って欲しいなと思っていたんだけど、ダンサーは自分の体の中の自由なリズムをとっているなと思った。無音で踊りなさいという時に、自分の中のリズムと、他の人のリズムとは違う。それを良しとしているみたいな気がして。私たちパフォーマーのショーは、テンポが絶対優先みたいなところがあって、そこから外れることはみっともないとされてしまう。そこがコンテンポラリーダンスと大きく違うところかと。練習が始まる前から分かってはいたけれど、皆さんダンスやっているから大丈夫かなって思っていた。そうじゃないと思った時も練習の初めの頃にはあったなと思いました。
綾子 私は結構気にしています。テンポとかリズムとか。でも私は最終的に無音で踊ることに憧れていて。無音で踊れるダンスがダンスのリズムだよね、みたいな事を何かで聞いて、なるほどなと思っています。音楽ってすごく強いから、そのテンポに合わせたいとか、この音楽と踊りたいとかありますし、手放したくはない。一方で、音がない状態の景色を綺麗にしたいがために音楽に付き合っていただいている、みたいな気持ちもあります。なので、実際に音があろうとなかろうと、テンポやリズムを大事にしようと思っています。
のすけ どういう踊りを踊りたいのかによるかと。以前、舞踏家の桂勘さんが「音楽もダンスも基本的には同じものである」と言っていて。僕もリズムが音として表現されているのか、それとも身体の動きとして表現されているのか、違いがあるだけで、根本にあるのはリズムとテンポという考えに賛同しています。
ダンスと音楽に関して、セッションのような状態になることを一番いいなと思っているんです。音楽にもダンスにも引っ張られない状態。例えば、生演奏だった場合は、双方が無理やり合わせるのではなく、お互いのリズムであったり、旋律が調和した状態がいい。ダンス単体でみても、美しいリズムであったりテンポみたいなのは、音楽なしでもダンスっていうのが成立するだろうし。音楽はダンス無しでも成立しているので。それはその人がどういうダンスを踊りたいのかによるのかなと。
シモーヌ コラボやジョイント、バンドのセッションの時には、この人はどんな弾き方でどんな音を出しているのかと、ある程度お互いのデータがないと難しい。知っている人同士は簡単に合わせられる。初めて合わせる面白さみたいなのはあるけれど。リハ無しのぶっつけ本番は、ジャズでは即興があるけど、他ではあまり無いかなあ。リハの時に様子伺いながらお互い探りあって面白いところを見つけ出すみたいな。
コンテンポラリーダンスの中で、即興のセッションをやっている方は面白いかもしれないけど、観ている側は面白くなくてもいい、みたいな感じの風潮はない?何を面白いと思うかにもよるんだけど。
さち コンテンポラリーダンスは、これまでダンスだといわれていた概念を排除したり、そうじゃなかったものをダンスだとしたところにあって。
例えば、ダンスは音楽と一緒にあるものであるという大前提を崩す、音楽がなくても、それをダンスとする。煌びやかな衣装ではなく、普段着みたいな格好を衣装とする。動いてないように見えるけれど、ダンスとする。日常の動きをダンスだとする。そうした変遷もコンテンポラリーダンスの成立に含まれるので、音楽の必要性っていうのは必要か不必要かを問われると非常に難しいです。
成功している、失敗しているということではなく、エンターテイメント要素がある従来のダンスを、その要素も省いていった、強いてやってきたことが、コンテンポラリーの流れとしてあります。
音楽のリズムって強いから、観ている人にも分かりやすいし面白い。音がジャーンって鳴ってポーズを決めたら、共感しやすい。だから、その状況を無音でも成立できたら凄いことだし、それを目指して実験をしている人も多いと思います。
シモーヌ なるほど。スタイルが出来上がってしまっている感じに見えるけど、まだ実験段階ってことなのね。アートでいうところのワーク・イン・プログレスとは違うと思うけれど、実験進行中ってことなのかな。
さち 私が好きなトリシャ・ブラウンのカンパニーは音を使わない作品も多いんです。無音なのにリズムや規則性みたいなものが見えたりするのでとても心地いい。無音で成功している人もいると思います。好きだなって思うんです。だから必要か必要でないかというと難しい。
シモーヌ それが先程の質問で意見が出ていた「自由」に繋がるっていうこと?
さち はい。繋がっていると思います。
シモーヌ さっちゃんの話を聞いて、私たちドラァグクイーンやエンターテインメントの業界では、例えば3分や5分の短い時間の中でひとつのショーを完結させないといけない、一日一晩のパーティーやライヴの中でも完結させないといけないというのがあって。入場料を払って観に来たお客さんに対して、等価交換といった考えのもとに成立する世界なので。観ている側、お客さんに何を渡せるのかという視点で評価をしてしまいがちなのですが。
コンテンポラリーが実験であるならば、別にそれはそれで等価交換を求めなくてもいいのかもしれないなと思いました。ただ、観ている側に「面白い」「面白くない」といった感情は必ずあると思っていて。私は良い印象を持って帰りたいと思っている。例えば100回観て100回とも悪い印象だった時に、この実験に関係持つのやめようかなと思う人が居る場合、残念かなと思う。実験だけどとても面白い、素敵という印象を持ってくれたらいいと思うけれど。それは皆意識していたりするの?
綾子 意識しています。「好き勝手やるので観てください」とは思ってないです。実を言うと私、完全即興ですら、やることだけでなく観るのも得意ではないです。偶然の奇跡に期待はしますが、やっぱり作品を観たい。
先程「コンテンポラリーダンスがひとつのジャンルとして落ち着いた」と言いましたが、そこが気になるのは「コンテンポラリーダンスは常に先端の尖った部分でなければならない」と言われて育ったからかも。尖らせるために、時間をかけて練るイメージがあります。それと同時に「面白いことは過去の偉人たちが既にやり尽くしている」「今更この同じ身体で新しいことだなんて」とも思っていますが、常に実験の精神は持っていたい。どの作品の中にいても。そしてその実験に対して自分が面白いと思えていないと、人前には出られないです。
私が面白いと思ってやっていることを、あなたにも面白いと思ってもらえたら、よし!みたいな。
シモーヌ それはまぁ、どのジャンルもそうかもね。
綾子 「実験なので、別に楽しんでもらわなくてもいいです」みたいなことをするんだったら、お客さんにお金はいただけないと思います。
シモーヌ コンテンポラリーダンスって、先鋭的で尖った感じの実験はそれなりにある。でもゆるくてフワッとした実験はあんまり無いように思うんだけど。結果的にそうなってしまったことはあっても、一番最初からゆるい実験を目指しているステージはないような…。ゆるゆるでダルダルだけれども面白い、かっこいいという実験があってもいいような気もするけど、それはないの?
綾子 私今それを目指しています(笑)。ゆるいけど面白いを目指して6月にやります。
シモーヌ 頑張ってください~。