『OCTOPUS STORY』の制作プロセスについて ④
次に、私たちが初めに表明した問題意識、ステイトメントについて、そのまま再掲する。 『FEAR』ステイトメント:
我々プロジェクトメンバーは、日本で生きることに生きづらさを感じている。 日本は高度に発達した社会であり、格差こそあれ裕福な環境にある。食べるものや住むところに困ることもない。しかし、こういった衣食住のレベルを超えたときに現れる、非視覚的な日本の隔離社会ないし社会システムによって大勢の人が「殺されている」。私は人びとが「殺されている」ことに強い不安と違和感を感じるのである。 ところが最も恐ろしいことは、その事実に誰も疑問を持たない社会に属する「われわれ」自身である。システムから一歩踏み外れた途端、「あの人」は排除される。歪んだ社会システムの実態 がそこにはある。
「みんな苦労して生きているのだから、お前も苦労しろ」
「なぜ苦労して稼いだ金を、怠け者の弱者に使わなければならないの?」
日本では年間3万人が自殺する。これは15分に1人が自ら命を絶っている計算だ。日本人は皆この事実を知っている。しかし私はこれを自殺でないと考えている。そして多くの日本人も気づいて いる。大勢の人々がシステムに支配され、システムに「殺されている」ことを。人はそのような 共同体の中で日々 「生き」ている。
「引きこもり」とは、共同体の中で「殺される」もうひとつの良い例である。
日本では「引きこもり」という、外部との接触を辞め、自分の部屋に閉じこもってしまう人が 100万人を超える。引きこもる人の多くは、学校や仕事で「失敗(=ミス)」した者たちである。
日本社会は「失敗」した者を否定し排除する。そしてその後の人生の「選択肢」を奪い取るのである。自分の未来に絶望した100万を超える人は、他人に迷惑をかけることを恐れ、家族や友人にすら相談することもできず、人とのコミュニケーションに絶望する。 なぜならば彼らは「ひとり」にされてしまうことを怖がっているからである。「絶望させられた」人間は勇気を持つことも、抵抗することもできない。生から遠ざかるか、孤立するしかない のである。
日本では、問題解決型能力を育む教育が極めて少ない。日本には社会システムのために役立つ、「ロボット」が必要なのであり、そのシステムに疑問を持つ人間は必要ないからである。そしてこれらの現実に「NO」と言うことは、日本で生きる人にとっては勇気のいることである。
なぜこのような事態に陥ってしまったのだろうか。
それは強者と弱者の関係だけではなく、弱者同士でもお互いに足を引っ張り合うというような、非常に複雑に入り組んだ共犯関係が成り立っているからではないだろうか。別言すれば、日本人は「他者」を恐れ、その恐怖を乗り越えることができずにいるのである。
では恐怖を乗り越えるためにはどうすればよいのだろうか。重要なことは他人とのコミュニ ケーションに全力を注ぐことに他ならない。他者を理解するために、私は全力で目の前にいる 「あなた」とコミュニケーションを図る。衝突や不協和音も時には生まれるだろうが、私の意図 は「あなた」のことを理解し、「あなた」と協働することにあり、これを通じて「私たち」は共に衝突を乗り越え、突破口を見出そうとする。ここで見出した突破口こそが「選択肢」であり、「私たち」に多くの道があることを示してくれるだろう。
「われわれ」を脅かしているシステム。「私たち」は人間が恐怖によって抱く虚飾(イメージや 感情) を剥ぎ、ありのままの姿をさらけ出させたい。しかしどのようにしてありのままの姿をさらけ出せるのだろうか。協働することによって生まれる「共創性」にヒントが隠されている。
恐怖が人間に抱かせるあらゆる感情は、人間がはるか昔から考え続けてきた問題である。そして恐怖を克服するために様々な文明=社会システムが発達してきた。これによって私たちは、人間がかつて日常的に感じていた「野生的な恐怖」とは無縁の、高度な社会システムの中で生きるようになった。高度な社会システムで生きる人間はそれ以外の文化や価値観を「野蛮」とみなしてきた過去が人間史にはあるが、これは、未知のものに対する「恐怖」による反応の結果だった。 現代においてはシステムから一歩でも外れることが「野蛮」な行為であると言えるだろう。一歩踏み外した途端、安住の地であった場所は大きく黒い霧のような得体の知れないものとして立ち上がってくるように見える(本当は、そこには何も恐怖は存在しない、と私は考える)。今や恐怖とは克服するものではない。常に創造し、創造されていくものなのである。
私たちプロジェクトメンバーは、「恐怖」の対象を人間がどのように創造・想像しているのかを 理解するために、ワークショップ、リサーチの実践を試みたい。恐怖に対する感じ方は日本人間に於いても異なるがゆえに、参加者とプロジェクトメンバーによって生まれる恐怖を「新しい恐怖」と位置づける。この「新しい恐怖」は、文化摩擦や差別、戦争などが起きている「いま」の恐怖を姿を浮き彫りにさせるかもしれない。また、それはこれからの未知の恐怖を知るきっかけにもなるかもしれない。これからの恐怖を考え るための方法として、私たちが感じている「いま・ここ」の恐怖と、ワークショップ、リサーチで共創する 「そのとき・そこ」での恐怖を通じて、新たな恐怖を創造する。このように、恐怖に対するイメー ジを再構築することで、可視化できない未知の恐怖について再考していくことが最大の目的である。