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Process-005

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昨年(2020年)7月に大阪府吹田市から竹田市へ住民票を移して、家の準備を進めながら3か月後の10月に妊娠3か月の連れ合いと居を移した。もともと(支援者の後押しもあり)オランダ移住をするつもりで物件の目途もつけていたのだけど、コロナの何だかんだで結局断念、大阪の家も出なくてはならない状況になっていたので、学生時代から馴染みのある阿蘇周辺で家を探しはじめ、諸々条件が良かった竹田に住むことを決めた。僕たち夫婦にとって、田舎への移住は前々から実現したい思いがあったので、そこまで気張らず、軽い気持ちで「引っ越し」たのが正直なところだ。子供も生まれることやし、圧倒的な自然がある場所で過ごしたかった。 大阪での暮らしと比べると、(発達障害的視点からみると)「ノイズ」が本当に減った。色々な人間関係や都心部における社会問題とか、広告とか、雑音とか、電灯のあかりとか、明るい夜空とか、コンクリートとか、30年以上関西を出たことがなかったけど、あんまりこの(都心での)生活は自分には向いてないんだなということがようやく分かった。大自然に囲まれて、上手い水、酒、野菜、人生で初めての畑作業をしたり、じっくり妊娠中の連れ合いとコミュニケーションをとり、出産、育児にもたっぷりと時間をとることが出来た。固定費が格段に下がったので、固定費のために働くこともなくなった。大事な仕事だけに専念することもできるようになった。30歳のころ僕は一度死んだ。「外部」からも「内部」からも孤立し死にかけていた僕を助けてくれたのは連れ合いだった。そしてボロボロの僕に手を差し伸べてくれる(数少ない)人たちのおかげで関西で5年やり直し、そこからの移住だった。 そんな生活をSNSで発信していると、引っ越し間もないうちから大阪や京都の友人アーティスト、研究者たちが途切れることなく訪ねて来るようになった。(僕の友人たちは変わった人が多く)1週間や2週間滞在することはざらで、大自然と食、「水」を堪能して、生きることの基礎を見直し、人とのコミュニケーションを見直し、自分自身を見直すような作業をしているように見えた。それは僕も同じだった。引っ越し後、長くて2週間くらいしか家族だけの生活は続かず、それは1年経った今もそうだ(連れ合いにはたまにキレられるが本当に感謝している)。今回のOCTOPUS STORYプロジェクトだけではなく、金サジ(写真家)とのプロジェクトも竹田で進める機会があり、クリエイション、プロセスを踏む場所として竹田周辺はとても適しているような気がしている。昔の文豪が辺境の温泉宿で執筆していたように、社会から隔絶されたような錯覚を覚える場所なのだ。そんな場所で、今回クリエイションを行ったわけで、昨年制作した「恐怖」プロジェクトは自分以外の人(他者)に対するアプローチであり、「無関係だった」他者を作品内へ巻き込むような作品となったが、今回のプロセスにおいては、クリエイションメンバーのより根源的な部分に各々が触れるプロセスを辿ることにした。前回も今回も私自身はほぼ「制作」していないが、今回は特に各メンバーから「出てきたもの」をそのまま「並べる」「置き換える」ということに徹している。映像編集にとても似ている作業であり、そうすることで「人間」の生き様がはっきりと浮かびあがるのだ。 その有様が「立つ」舞台美術は今回、出川晋が担当している。彼は大学の後輩でかれこれ18年の付き合いになる。出川は「恐怖」プロジェクトにも参加していて、コンセプトやプロセスについてはOCTOPUS STORY参加前から深い理解があった。今年6月のフィールドワーク、クリエイションにも参加してもらい、出来上がってきた無形物(小説、振り付け)を物質化してほしいと彼には依頼した。そして出川は祖母山麓エリアにある廃小学校体育館の内部に現実の断片と複製を導入する形で返答した。ステージの形状をペトロ・カスイ岐部が眺めたであろう、国東の海蝕岩・洞窟が点在する湾の形をトレースした造形にした。また、その湾で海蝕岩を収集し舞台内に設置している。その他、竹田の岩が「浮遊」したり、阿蘇・牧野の「雨」が降ったり、海岸に「潮が満ち」たりする。外部の自然と内部のアート、現実の断片を複製、配置し直すという試みをもって返答した。 祖母山麓について詳しいサイト https://sobosanroku.jp/

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『OCTOPUS STORY』の制作プロセスについて ⑤

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